後に北海道庁初代長官になる岩村通俊は、明治15年と明治18年に現在の旭川市から東神楽町にかけての地域を訪れ、「ここに、東京、京都に次ぐ新しい都『北京』を作りたい!」と政府に要望しました。
しかし、これは政府に認められませんでした。
続く北海道庁第2代長官の永山武四郎は、さすがに新しい都「北京」は無理でも、せめて「離宮(天皇陛下の別荘)を作りたい」と考え、明治21年に政府へ要望しました。
そして、明治22年には、晴れて、政府から「離宮を建ててもいいよ」と認められました。
しかし、札幌方面の人々から「そこ(今の東神楽近郊)離宮を作ってしまうと、逆に札幌が衰退するので困る」という反対の声が徐々に強くなってきました。
そこで、明治25年、北海道庁第4代長官の北垣国道は政府に離宮建設に反対する意見を伝え、今の東神楽に離宮ができる計画はうやむやになってしまいました。
離宮を造るのか造らないのかよくわからなくなってしまったので、明治27年、政府は離宮建設予定地を「将来天皇陛下が必要だというときはちゃんと返してね」という条件で、一般の方々に土地を貸し始めました。こうして、東御料地(「皇室の土地」の意味。今の東神楽に相当する地域)の開拓が始まりました。
苦労して開拓し、長いこと土地を借りて耕していた人々から「借りるにせよ、もっと安く貸してほしい」「借りるのではなくこの土地を自分たちにちゃんと売ってほしい」「この土地はもう自分のモノにさせてほしい」という思いが強くなり、大正9年から大正13年にかけて、「小作争議」という土地を貸す人と借りる人との間の争いごとが起きました。
その結果、大正13年、政府は東御料地(今の東神楽に相当する地域)を、農民さんたちに安く売ったり、タダであげたりすることにしました。
そのとき、政府は、東御料地がもう天皇陛下の土地ではないことから新たな名前として「東神楽」と名づけました。
東神楽は「神楽村」の一部でした。
しかし、昭和15年ごろから神楽村とは経済圏に違いがあることをキッカケに、東神楽の人々は神楽村から独立して「東神楽村」を作ろうという機運が高まりました。
昭和18年、無事、神楽村から独立して東神楽村が誕生しました。万歳!